終戦記念日特別企画 婆様編

爺様ばかりだと不公平なので、婆様から聞いたお話もちょっとばかし紹介させて頂きます。
(まだ引っ張るんかいー!)

戦争中から始まっていた食糧難は戦後ますます深刻になり、配給される米は一日一食にも足りなかった。

空き地という空き地は全て畑となり、トマト、茄子、大豆トウモロコシ等が植えられた。
さつまいもは砂地でも水さえあれば育つし、芋の部分だけでなく葉っぱや蔓まで食べたという。

フスマと聞くと、嫁は障子や唐紙を連想するが、小麦の外側の皮のことで、玄米を精米する時に出る米糠のような物で、主に家畜の飼料であった物で饅頭を作り、凖主食としていた。
当然味はひどかったらしい。

米の配給が途絶えると、代用に大豆から油を搾った滓の豆かすが配られ、それを焼いて食べた。

どじょう、たにし、イナゴの醤油の付け焼き等は御馳走の部類だった。

それでも量の不足は補いきれず、ツテを辿って近隣の農家を回り、手持ちの着物や袴と芋を交換してもらう毎日だったという。

始めは快く野菜を分けてくれた家も、二度三度と続くと次第に「また来た」と迷惑そうな顔をされるようになるので、なるべく日にちを置くようにしたりしたけれど、息子夫婦が野菜を持たせてくれようとすると、奥からお姑さんが出てきて怒鳴られて追い出されたり、その反対に、息子に見つかると良い顔しないからと、お婆さんが内緒で野菜を分けてくれていたら、その最中に息子夫婦が戻って来ちゃってエラい怒られたとか、

なかでも、かなりキツいと思ったのは、片道だけで一日かかる遠方の親戚の家があって、そこは空襲にも遭わなかったので、頑張って訪ねていって少しでも食べ物を分けてもらえないかと頼んだところ、生憎うちにも食べ物が無くてと断られてしまった。

帰ろうにも、もう日も暮れてしまって、とても小娘が歩いて帰れるような場所でもなかったので、食事も無くて構わないし、明日朝一番で出て行くから何処か隅っこで寝かせて欲しいと頭を下げて、空いてる一部屋に寝かせてもらったんだけれど、

夜も更けた頃、障子の向こうで蕎麦啜ってる音が聞こえるんだそうな。
それも、一人じゃなくて、明らかに家族で食べてる音だったって。

くわぁ~~~!きっついー。

婆様は笑って話して下さったけれど、その時の婆様の気持ちを考えたら、流石に嫁も笑っちゃ居られませんでした。

ひもじさと悔しさと悲しさで聞く、背中越しの蕎麦啜る音って、どんなだろう…

それ以後、その家とは疎遠になってしまって(そりゃそーよね)、何年も音信が無かったんだけれど、随分経ってから、成人した子供さんから母親が逝去したという連絡があって、何十年ぶりかでお焼香に伺ったら、

亡くなる以前、その方は婆様に食べ物を分けてあげなかったことを物凄く気に病んでいて、悪いことをした、済まないことをしたと繰り返し子供さんに言っていたそうです。

…誰もが生きること、自分の家族を守ることで精一杯だった頃のお話です…

POTE
Posted byPOTE

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