天皇弟君が赴任されるくらいだから、安全とは言えないまでも、日本軍占領下にあった南京支那戦線は割と治安も良かったようです。

うちの爺様は近衛隊とは言え一兵卒に過ぎなかったので、厩の掃除と馬の世話をしながら、休憩時間に宿舎外に出ては、馴染みになった地元商人から買物したり、片言の中国語を教わったりして、そこそこ日本軍と南京市民は(南京虐殺の件もあるし、占領軍と被占領地住民なんだから、表面上だけかもしれないけれど)うまくやっていたそうです。

そんな中で終戦を迎え、帰国の途につく訳ですが、充分な船数も用意されず、しかもその船に乗れなければ中国に置き去りにされてしまうかもしれなかったため、船内のありとあらゆる隙間に兵士達は詰め込まれ、爺様は立錐の余地もない甲板の手摺にしがみつき、砕ける波涛の潮を被り、揺れる船から投げ落とされそうな恐怖に晒されながら、荒れる日本海を越え、何とか無事に帰国しました。

しかし、生まれ育った東京に辿り着いた爺様の前に広がっていたのは、悪夢のような一面の無惨な焼野原で、両国から市川まで見通せてしまう光景に愕然としつつ、それでも生家を目指し、母親と妹が乞食のような有様で、トタン板の下で雨露を凌いでいる姿に言葉も無かったそうです。

特攻候補生の方で、出撃直前に終戦になってしまった為、自分は生き残ってしまった、先に逝った仲間達に申し訳ないという気持ちでずっと生きている、というお話をよく伺いますが、

志願にせよ、召集にせよ、国を守る覚悟で一度は戦地に発った人達にとって、生き残るということは「恥」であり、逝き損ねた悔しさを払拭することは難しく、生き存えたからこそ家族を持ち、子供にも孫にも恵まれ、その喜びを何よりも尊く思い、感謝する一方で、おおっぴらに「助かった」「ラッキー」なんて思う人はあまりいらっしゃらないみたいなんですね。

戦争を知らない世代の嫁としましては、爺様も、国の命令で南京まで行かされて、身振り手振りで語られる帰国の時の荒れる日本海の様なんか聞いてると、凄い苦労なさったと思うんだけど、爺様にしてみれば、家族や国を守る為に戦争に行った筈だったのに、幸運にも近衛所属だったおかげで、自分は外地でも衣食住に不自由のない生活が出来ていて、それなのに、東京は焼野原と化し、膨大な犠牲者が出て、母と妹は生きていたけれど乞食のように成り果て、家も焼けてしまった、自分は何もしてやれず、一人安全なところでのほほんと過ごしていたという罪悪感が随分強くあったようです。

同じように終戦時20才で、毎日が空襲警報と防空壕避難の繰り返しだった婆様(当時大田区在住)の方がよほど割り切っているというか、婆様が終戦記念特別番組で東京大空襲とか原爆投下とか沖縄ひめゆり部隊の悲劇とかのドラマ見ようとすると、爺様は厭がってすぐ他の局に変えさせたり、先に寝ちゃうんだそうで、個人ではどうすることも出来ない戦争という特異な時代だったとは言え、軍属でも何でもない老若男女の一般市民が戦火の犠牲になってしまったことが、今でも申し訳ないみたいです。

しかし、私も「また始まった」と正直うんざりしながらも、伊達に10年同居してないというか、よくこれだけちゃんと拝聴してたもんですわ。

なんつったって、爺婆さまともども、大正昭和平成と、その人生がもろ近代日本史なわけですから、正直NHKの朝ドラなんかより、よーっぽどリアルで緊迫してて感動的です。
POTE
Posted byPOTE

Comments 6

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山田あしゅら  
Re: 黒き波涛

戦時中の話はギリギリで召集がかからなかった義父から、
戦地ではない市井の暮らしとして聞いています。
16そこそこ、家を離れ他県に就職した頃は食べるものもなく
就職先の鉄道会社で、かなりの悪事を働いたという話は
義父の武勇伝(?)として私も耳タコで聞きました。
そうでもしないと生きては行けない。
戦地も地獄。内地も地獄だったんだと思います。
呆ける前の義母からは当時エリートだった赤十字の看護婦を目指していた話など聞きました。
優秀な同僚が戦地で何人も若い命を落としたのだそうです。

戦争はもう二度とあってはならないですね。

2009/08/18 (Tue) 01:15 | EDIT | REPLY |   
POTE  
>山田あしゅらさま

今回の記事を書くにあたり、wikiやGoogleで戦争関連についての記述を随分読みました。
補給を絶たれた日本軍の、南方激戦地における絶望的な戦いのみならず、降伏した民間人に対する連合軍兵士による強殺、婦女暴行等々の残虐行為に関する証言をやり場のない憤りと暗澹たる思いで読みました。
古今東西虚しくも繰り返し言われていることですが、戦争とは、真実が、秩序が、理性が失われる混沌であり、そこに身を置くことで、人はかくも容易に獣性を剥き出し、残酷で非道で冷血になりうるのだと改めて思いました。
神戸の震災でも、直後は一時無法地帯状態で、略奪、暴行、空き巣が横行していたと聞きます。
日常が瓦解するって、ホント恐ろしい。
家族が健康で、三度の食事が出来るのなら、それ以上望むことはないですね。
(微細な次元での要望は多々ありますけれど)

コメント有り難うございました。

2009/08/18 (Tue) 15:41 | EDIT | REPLY |   
まさひま  
Re: 黒き波涛

POTEさんによる「お爺様の代筆」でなぞが解けました。

私の亡父のアルバムに、なんとも長閑な「チャイナドレスの中国美人(微笑みの)と若き父の2ショット」があるのです。
日本は中国に酷いことをしていたのに、この友好ムード、なぬ?

ほんとに、父から戦争だけでなく、いろいろなこと聞きそびれました。

その代わり、戦争のことを考えるきっかけは、姑です。

教師と看護婦という姑の姉家族は、満州に渡って行方知れず。
残留孤児の番組は、身内意識で見入ってしまいました。

子連れ再婚した母は、前夫がひょっこり帰ってくるかもしれない、あるいは、南洋の島で、助けられたけれど、記憶を失っていて、帰ってこれないのかもしれない、など、連れ子である夫の思春期までは、いろいろあったようです。

弟妹たちが生まれて、新家庭が機能してくると、亡父、亡夫の存在意義はなく、影が薄れてくるのは仕方ないけれど、亡き人の誕生日も、戦没日も関係ネエ、は寂しいものです。(○町史で調べました。)

私たちの結婚記念日は、偶然にも、亡父の誕生日です。
知らなかったので、この日に決めたのは、不思議としか言いようがありません。

健康であっても、鬼籍の人、のこともあります。
戦後、長い時間が経過しました。


2009/08/18 (Tue) 18:45 | EDIT | REPLY |   
POTE  
>まさひまさま

うちの爺婆様は、双方の家族とも奇跡的に戦中戦後を生き抜くことが出来ましたから、当時の記憶が都合の良い武勇伝となり、一杯入る度にエンドレスで家族に滔々と語ってきましたが、お身内が戦死されたり、空襲で亡くなったり、行方不明になっていたら、語るどころか思い出すのも辛いと思います。

64年という歳月が経ちましたが、戦時中に身を置いておられた方達には今でも昨日のことのように思い出されるようですし。

哀しみは薄れても、消えることはありませんね。

人の見ぬものを見、人の聞かぬものを聞き、依り代として今は居ない人の言葉を代弁する人によると、

お墓参りや大勢の参列者で営む法要も大切だけれど、作法や形式に拘ること無く、折りにふれて亡き人を思い出し、安らかな成仏を願うだけでも、立派な供養になるそうです。

私達が亡き人を思うことで、肉体は失ったけれど、その人達の魂は私達の中でちゃんと生き続けているそうです。

時々思い出して、御夫婦で夫々の御両親について語らうことで、御夫君の父上も、まさひまさまのお父様も、きっとお喜びだと思います。

コメント有り難うございました。


2009/08/18 (Tue) 22:18 | EDIT | REPLY |   
まさひま  
Re: 黒き波涛

POTEさま

終戦特集を機に、私の思いをお聞きくださいまして
ありがとうございました。

今まできちんと言葉にしていたわけではなく、なんとなくもやもやしていたので、文章として、自分の気持ちが整理できたのは嬉しいことです。

常日頃、亡き人を追悼しているわけではなく、平凡な日々です。

先に亡くなった人が善人に思われるのは、人情というもの、
夫の継父にしてみれば、兄の戦死で、ある日突然、やんちゃ盛りの男の子の父親にならされて、継父にも言葉に表せない思いがあったでしょう。

折に触れて、亡き人と対話し、(実は自分自身との対話なのですが、)着実に年を重ねたいものです。

2009/08/19 (Wed) 10:21 | EDIT | REPLY |   
POTE  
>まさひまさま

思いのほか、長期連載となってしまった昭和こぼれ話ですが、

誰の人生にもドラマがあり、夫々にかけがえのない人生を精一杯生きて、その命が自分に受け継がれているのだという思いを改めて実感しました。

私には子供がないので、それを託す血脈は途切れる訳ですが、このブログを覗いて下さる見も知らぬ方が、そんなこともあったんだと記憶の隅にでも入れておいてくれれば、それも立派な引き継ぎだと思います。

コメント有り難うございました。

2009/08/21 (Fri) 14:06 | EDIT | REPLY |   

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