先代の婆様がどのような幼少期、娘時代を送っていたのか、今となっては知る術もありませんが、

明治女の気骨 と言います。

300年続いた幕藩体制が終焉を迎え、大政奉還、尊王攘夷、王政復古、明治維新、四民平等、富国強兵、殖産興業、学制、地租改正、条約改正 と、

ありとあらゆる制度、価値観、常識が激変した疾風怒濤の激動の時代に生まれ育ち、関東大震災、太平洋戦争といった未曾有の災害、苦難の時代を生きて来た人だからこそ、

己の信義、ブレない立脚点を持つことの重要性、
不安を抱きながらも、勇気を友に、希望と未来を信じて新たな一歩を踏み出す高揚感、
新しい時代、新しい世界、新しい生き方に、誰もが心躍っていたことでしょう。

ひとかどの豪農に生まれ、何不自由なく暮らし、

父親の散財と急逝で、一時は没落に傾いたものの、酒も煙草もやらない真面目一途の
入り婿のお陰で、家は立派に持ち直し、
(家付き土地付き娘だったので、そりゃー立場も強く、気も相当強かったらしい)

子供にも恵まれ、これでひとまず安泰と気が緩んだところ、

大人しくて働き者の亭主が敗血症(破傷風だったらしい)で急逝するや、次から次と子供達が流行病で死亡。

途方に暮れながらも先代の婆様は遮二無二働き、亭主の残した酒屋と田畑を守り、生き残った三人の子供を無事育て上げ、東京大空襲も生き延び(家屋と店舗は焼失したので、終戦を機に酒屋は廃業)、

出征した二人の息子も無事帰国して、それぞれ就職し、生活も安定し、子供達もとうに身を固めていい年齢だったので、先ずは下の妹を嫁がせ、次に爺様が嫁御(現婆様)を迎えた訳です。

明治女の後家姑に、独身弟が同居してる婚家ですよ。
現代だったら、家族構成聞いただけで、ふるふる御免って奴ですわ。

ただ、平成の今だって、亭主が死んだ途端、世間の目がそれまでと違ってキツく、同情めいた見下した眼差しになって戸惑うものだけど、
(そうじゃない場合もありますけどね)

亭主が居ない、後家相手というだけで役所、商売相手は掌返したようにぞんざいな態度に出る、晴れの日だけの親戚友人は沈没船から逃げ出すネズミのように離れて行くんだから、大正の頃の未亡人の方は、今とは比べ物にならないくらいの苦労があったろうし、腹の煮える思いも幾度呑み込んだことかと思います。

だもの、女だからって舐められてたまるものかという気概が身に付き、
相談出来る相手も居ないから常に自分で考え判断し決断して来たから、仕切るのも手慣れたもの、
常に自分ありきで、息子や嫁に意見を求めるなんて意識が更々無いのも道理なわけです。

当然、親同士が決めた婚儀でもあり、当時はそれが主流だった訳ですが、とにかく新婚の甘い生活なんか何処をひっくり返しても出て来ない(笑)、気の強い姑に仕え、夫に仕え、同居の弟の食事や洗濯、掃除だってしなきゃならない。

(もっとも、弟御は何か困ったことがあったら自分に相談してくれと、何くれと婆様をサポートしてくれたらしい)

当時の女子の嗜みとして、婆様はお茶、お花、お裁縫はきっちり仕込まれていたものの、婚家が望んでいたのは姑と一緒に畑仕事と家事が出来る嫁で、

六人兄妹の末っ子で、幼い時分は乳母日傘で大事に育てられて、姉達のように奉公に出されることも無く、娘時代は戦争中でそれなりに苦労もしたけれど、ずっと親元で、言葉遣いもおしとやかに、お嬢さんに躾けられた婆様が嫁いで行って、

日本舞踊の扇の代わりに、鍬とか鎌を持たされるんだから、

勿論、当の婆様もあまりの環境の違いに相当苦労したであろうことは想像に難くないけれど、

姑である先代の婆様も、随分毛色の違うのもらっちゃったと、内心当惑していたのではあるまいか。

「さっさと飯喰っちまいな!」
「まだ終わらないのかい?」
とかが普通の会話の家に、

「わかりましたわ」とか
「そうですの」とか おっとり返されちゃあねえ。

(続きます)



POTE
Posted byPOTE

Comments 0

There are no comments yet.

Leave a reply